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心理的に健康になるためには

今回は神経症的傾向の強い人がどうすれば心理的に健康な人になれるかを考えたい。
まず二つのことがある。一つは親からの心理的離乳。もう一つは毎日何でもいいから小さなことを続けること。

日常生活を大切に

何事においても生き方を間違える人は、地に足がついたことをしないで派手なことをしたがる。なぜそうなるかはすでに今までに説明しているので理解してもらえるだろう。人生でつまずいて立ち上がれない人はまず日常の生活をきちんとしていない。生き方を間違える人は今現在を大切に生きていない。人生を間違える人は毎日毎日することをきちんとしていない。

毎日鉢植えに水をあげるというのでもいい。そうすれば花が咲いて、そこに喜びがある。毎日水をあげないで咲いた花を見るのと違う。どんな小さなことでも毎日きちんとするというのが大切なところである。

あるいは三度の食事をきちんと作る。だからこそたまに外で食事をするのが楽しい。たまに豪華なフランス料理を作るよりも毎日毎日三度三度の食事をきちんとするほうがはるかに大変である。神経症的傾向の強い人はたまに豪華なフランス料理を作ることに熱心で、毎日毎日三度三度の食事をきちんとしない。

現実から目をそらしたくなったら何か一つでいいから、きちんと毎日続けてすることである。先に書いたように植木鉢の花に水をあげるのでもいい。あるいは毎日100円を貯金するのでもいい。顔を洗ったときに洗面台をきれいに拭くのでもいい。クラシックを1時間聴くのでもいい。これを毎日続ける。

毎日の積み重ねのなかで何かを感じる。例えば1年続ける。するとそこに達成感が生まれる。そして「こんな小さなことでもこんな気持ちがいいのだからもっとしてみよう」という気持ちになるだろう。

現実から目をそらすためにすることはたいてい非現実的に大きすぎることである。例え努力しても、たどり着けない。もともとたどり着けないことをしているから結果は失望の深刻化である。大きいことをするよりも毎日のことをきちんとすることである。

毎日5分本を読むのでもいい。それを5年続ければ自分が変わってくる。毎日続ければ人は変わる。今していることを何年できるかである。今していることを5年できれば、それは心の財産になる。

こうした生活をしているうちに自分にふさわしい人生の目的が見つかってくる。きちんとした日常生活をしないで人生の目的を見つけようとするから見つからないのである。

自分で自分を受け入れよう

さて次に親からの心理的離乳である。今まで説明したように心理的健康とは、自分の能力が大きかろうが小さかろうが、自分が自分であることを喜ぶことである。私自身若い頃神経症的なところがあって、自分の能力に満足していなかった。どうしても私は実際の自分の能力も適性も受け入れることができなかった。

私は父親の期待をかなえることが自分の人生の意味になってしまった。そこで自分の欲求を明確にすることができない。年と共に自分の欲求ではなく父親の欲求をかぎ分けるようになった。

しかし自分が自分であることを受け入れられるようになってみると、何で自分は自分でしかないというこんな当たり前のことが受け入れられなかったのかと不思議になる。何で非現実的なほど高い期待を自分に課していたのかと納得できないような気持ちになる。

私は神経症の頃、心の底では自分がそんなに能力が無いということは知っていた。しかしそのことをどうしても認めることができなかった。自分は自分が憧れる理想の人間ではないと認めることができなかった。自分は自分であってはならなかった。自分はどうしても実際の自分より能力がなければならなかった。

しかし自分が実際の自分を受け入れられるようになってみると、どうしてあんな感じ方をしていたのだろうと不思議になる。自分は自分なのだから自分の能力で行けるところまで行くのが当たり前であり、それがうれしいのも当たり前であるように感じ始める。

実際の自分を受け入れてくれる人がこの世の中にいるのもまた当たり前に感じる。自分が自分を受け入れてみると、現実の自分を受け入れてくれる人がこの世の中にたくさんいることが分かる。そしてその人達と楽しく人生を生きられるのもまた当たり前に感じる。それは太陽が東から昇り西に沈むのと同じくらい当たり前なのである。

実際の自分を受け入れられるようになってみると、実際の自分を受け入れないのは太陽が東から昇ることを受け入れないのと同じくらい滑稽に感じる。つまり神経症の人は実際の自分の能力を受け入れられないというより、この世の現実を受け入れられないのである。

親からの心理的離乳を

 ところで私は若い頃なぜ実際の自分を受け入れられなかったのであろうか。なぜ非現実的な期待を自分にかけて、それに固執して悩んでいたのであろうか。なぜ実際の自分の能力で満足して、その自分の可能性を実現していくことに喜びを感じなかったのであろうか。

それは心の底で父親と対決することを恐れていたからである。私がそのように非現実的なほど高い期待をかなえて初めて私は父親に認めてもらえた。私は父親の承認を得るためにはそのように非現実的なほど高い基準で自分を評価しなければならなかった。私の父親は社会的な自分の立場に物凄く不満で、世間を恨み、それを息子の成功で見返してやりたかった。

父親の承認なしに生きていかれない私にしてみれば、その期待を実現することは至上命令であった。私はその非現実な理想に固執せざるを得なかったのである。私が実際の自分を受け入れるということは父親と対決することであり、父親の承認なしに生きていくことである。私がそれを避けようとする限り私は何時までも自分の想像の中で作り上げた理想的自己像にこだわらなければならなかった。何時までも実際の自分を拒否しなければならなかった。

実際の自分を受け入れることと親からの心理的離乳とは同時に起きる。私が親からの心理的離乳を完成できず、何時までも心理的に親に依存している限り、私は実際の自分を憎み続けなければならなかったのである。

ありのままの私は愛されるに値しないという感じ方を避けるためには私は自分が理想の自分であると自分に言い続けなければならなかった。心の底ではありのままの私は愛されるに値しない、成功した私しか愛されるに値しないと感じていたのである。

当時の私にはありのままの私を愛してくれる人などこの世にいることはとうてい信じられなかった。そんなことを言う人がいれば、それは私をからかっているか、気がおかしい人としか思えなかった。それ程までに私の自己無価値感は強かった。

私は肉親の愛というものを知らないで育った。肉親の愛とはどんなに欠点、弱点があっても「そのお前が素晴らしい」と言ってくれ、実際そう思ってくれることである。肉親の愛を知っている人は神経症にはならない。なぜなら愛されるためには今の自分のそのままで何も不足はしていないと感じているからである。

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